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明日のことは忘れてしまおう [日常編]

此方は浅海由梨奈さんのみ、お持ち帰り・転載可能です。



研究者失格
登場人物:ヴィンセント 百眼百手の者
モブ:ロロ
(研究者)
(人)
(人の親)






研究者失格


清潔な白い床、一点の染みも無い白い壁、ビーカーやフラスコの透明、用途不明の機材の銀、その全てが何処か薄ぼんやりとした霧を纏っているような雰囲気を持っていて、今この灰色の部屋は微かな電子音を除き異様なほど静まり返っていた。普段ならあの喧しいというのに何を言っているのか解らない二人が居るというのに、今日に限っては仕事でいない。この陰鬱な雰囲気がヴィンセントは苦手だ。しかし、そう易々と立ち去ってしまってはいけない理由がある。
微かな電子音を立てるPCの前にたった一点の極彩色である赤いパーソナルチェア、胸の上に抱いたそれを大切にしながら結果をじっと見ている部屋の主は、深い溜息を吐いて表示されていたウインドウを消す。計測結果の保存はしていない。差し入れられてから長く放置され、数時間が経過してすっかり冷めた紅茶を啜りながら、彼は胸に抱いたそれ、服の中に入れた赤ん坊の背を摩る。丁度身篭って膨らんだ腹部の上に乗せて、胸に抱く体勢だった為、うつらうつらする赤ん坊は目の前の申し訳程度の乳首を吸い始める。
「何やってんだ、あんた」
鬱陶しげに彼は首を振った、彼は自分の地下研究室にお客が来ていたことにずっと前から気が付いていたが、予期したのは彼ではなく別の誰かだったからだ。まだ出ない胸だというのにちゅうちゅうと健気に吸う子は、どうやら本格的にお腹が減った訳では無く、寝ぼけて反射的に吸っているだけらしく、羽と尻尾をぴるぴる一通り動かした後また丸くなって眠りだす。ヴィンセントは腕を伸ばし、中心がずれて落ちそうになった赤ん坊の位置を直すが、そもそも、何故こんな状況になっているのかが解らない。
質問に答えないまま、来客の方を見ようともせずに彼はまた赤ん坊の背を撫で、羽が動いたのを見て口元を歪める。慣れない人間が見れば精神をやられそうな表情だが、ヴィンセントにはなんとか笑っているのだという事は解った。此方を見ないのも彼は此方を見なくても物が『見えている』体と言うことも解る。服の下で羽が動く、尻尾が動く、赤ん坊の乗った彼のお腹の子も動いたのか、彼は少し顔色を変えて自分の腹部を二度、三度摩った。
「お、前こそ、何、を、しに、来た」
「いや……あんたの所に行った赤ん坊、一人帰ってきてなかったから。心配で」
ヴィンセントは一瞬言葉に困った様に視線を彷徨わせ、感じる視線から視線を逸らしながら、頬を掻く。ちゅうちゅう、と口に含んだままだった乳首を吸う唾液の音がする。彼はあやすように子を抱き、体を揺すった。これだけ見ればただの赤ん坊だというのに、幅広の耳、尖った尾、鱗の生えた羽、背中から生えた謎の突起物、その全ては今まで地球上に存在したどの生物にも類似して、全くの別種。その上、精に影響されて体色を変える、研究をしない訳が無い。さっき閉じられたウインドウの結果もそれに関係することだ。
肩を震わせる彼の自嘲気味な笑い声は、動物の金切り声に似ていた。痛みに耐えるよう、そんなに自分が信用出来ないのか、と笑う。ヴィンセントはそれを訂正しようと言葉を出しかかり、何が『違う』のか言葉に出し切れず、拳を握る。彼も訂正なんて望んでいない。彼自身、あまりにも淫魔の研究の為に犠牲を出しすぎたこと、それを全て躊躇いもしなかったこと、自分の手があまりにも血に塗れていることを知っている。また正体不明の生き物が現れたのだから、疑われて当然か。
味気無く、青い無地のデスクトップ、下の方でメールが来たらしい報せの表示、ヴィンセントがこの前来た時は夢魔の研究記録がわけの解らないスピードで打ち込まれていたが、珍しく何も映ってはいない。がたん、と扉が開く音がして、最初に来る筈だった来客が布に塗れてくぐもった足音を立てながら、何処か現実味無く蜃気楼のように現れて、白い床にべったり座り込む。それ以上移動する様子もない。ヴィンセントは彼の方を見たが、ロロも彼も全く無関心のまま、ロロは服の中から本を取り出して勝手に読み始める。
ロロもまた研究の為に此処に呼び出される一人、未だ正体の掴めない夢魔その人。その研究者である彼がこの状況を良しとしているのだから、得に問題は無いのだろうが、わざわざ呼び出した研究対象をこうも無視するとは、ヴィンセントにはやっぱり奇妙に思えた。生贄と引き換えに人外の知識を与える悪鬼魍魎の化身だとまで言われていた筈の彼、無論それは故郷で聞いた噂話に過ぎないが、それは彼自身がああして肯定していたこと。服の襟から目をしばしばと瞬かせる子を見ながら、彼自身も眠そうにしている。
「なぁ、こいつらの研究って何処まで」
「聞くな」
最後まで言い切る前に掛けられた言葉は、例えるなら一歩でも寄れば切り捨てられかねないような殺気を含んだものだったが、聞かせない、というよりは、言いたくない、といった響きだった。彼の顔には目が無い、正確には通常顔に当たる部分に目が無い、それでもヴィンセントは自分が確かに睨まれているのだと解る。彼は手荒なことを身内に強いることを嫌がっている、それでも、彼ほどの人間が此処まで研究が遅々として進められない程では無い筈だ。
もぞもぞ、抱いた子が自分の中に流れ込む不穏な精に不安がって目を覚まそうとしている、ふぇぇ、と声を上げ始めるのを皮切りに、糸が弛むように、楽が歪むようにヴィンセントへ向けられる殺気は掻き消えた。泣き声に寄って来たロロがふよふよ動く羽を宥めて撫で、慈しみの心を溶かした精が交じり、泣き声は徐々に小さくなって。春を香わせる薔薇色の瞳。そろそろ目が覚める時間でもあった、彼はロロに母親から搾って冷凍しておいた母乳を解凍して持って来るよう言いつけた。
「仮に、聞、いて、如何、す、る、もし、彼らに、人間、の、害悪、と、なる、決定的、な、要素、が、あったとしたら? そ、れも対処、し様、が、無い、程のものが」
スリッパの足音が小さく遠くなり、聞こえなくなる程度まで遠ざかった後、ちゃんと対話するかのように彼はヴィンセントに顔を向けた。今を取り巻く全てに関わる前のヴィンセントなら、迷わず人の害となるものなら処断する、と答えたのだろうが、今はとても勝手が違う。嘗て何よりも無知を嫌い、数多くの命を弄り物にしていた彼は、自嘲の笑いに骨張った肩を震わせる。自嘲の色を吸った薔薇色は、その濁りを濃く、歪んだ楽に似た波紋を二重に残した。
自嘲するのは、自分が愚かと思っていた人種に自分までなってしまったからか、それでも、もし本当に害悪を見つけてしまった場合、仲間にまで災厄を与えるならばと処断を下さなければならない立場を笑うのか。無知の方が幸せだ、知らないまま滅ぶならそれの方が、と、そうは言っても割り切れないのがサガ。何よりも、それは体にも宿っている。ヴィンセントは無言で彼の膨らんだ腹部に手を当て、まだ体で繋がった母親以外は聞こえない鼓動を聞いてみようとしたが、やっぱり聞こえるわけが無い。
「服、の中、に、入、れたのは、母乳、の、一つ、でも、出れば、良い、と、思ってだ。此方、の、方が、寒、く、ないだろう」
ただ、ヴィンセントは自分に恐れが無い事だけを知って欲しかった。引き攣るように彼の手の筋がひく、と動く。呟くような答えをもらえていなかった最初の質問への答えは、おそらく話題を変える為のものなのだろう。元からそう深い意味を込めた質問でもなかったのだから、ヴィンセントは質問に答えがあったことを信用と受け取ることにして、自分も無知な何かになることにした。腹部を触っていた手をずらす、赤ん坊の羽は硬かったが、体は人や淫魔の子と変わらずに柔らかく、温かい。ふ、とヴィンセントは微笑む。
「それだとお前がお前の子にやる分が無くなってしまうじゃないか」
「あぁ、それも、そう、だ、な」
仮にヴィンセントが指摘せず、母乳が出たのなら、初乳まで全てこの赤ん坊ににやってしまう気だったのか。さも今解った、とばかりに深く頷いた彼は、今度こそ本当にお腹が減ったと泣き出した赤ん坊をあやしながら、そうか、そうか、とまた何度も頷く。彼の顔の表情はまた赤ん坊を不安がらせないよう笑いかけていたが、ヴィンセントは確かに彼の横顔に憂いのようなものが見えた。そう、例えるなら戸惑いだろうか。スリッパの足音が聞こえる。
廊下で盛大に何かが転ぶ音がした。彼の言動や現在の精神は研究者として失格としたものなのかもしれないが、新しく得た人の心に戸惑う彼の姿が、ヴィンセントには堪らなく愛しく感じる。とりあえず、誰も何も解らなかったが、この温かさを全くの根拠無く信じることにした。彼も人間だ。それが人の親というものなのだから。
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